世界初・厳冬期チベット縦断3000kの山旅
2005年12月18日〜2006年1月8日
はじめに
2003年に、ラサからカシュガルまでの厳冬期チベット縦断を計画したが、賛同者が集まらず、2004年に延期した。しかし、賛同者はあったが予定人員に達せず、2005年になってようやく3名の参加者が決まった。どうしても世界初の厳冬期チベット縦断を実行したいという強い意志の3名は費用が嵩むのは仕方がないが、実施することにした。そして、ラサからカシュガルまでの厳冬期3,000km(鹿児島から稚内の距離と、ほぼ、同じ)の陸路縦断に世界で初めて成功した。
出発直前になって参加希望者1名があり、ツァー・コンダクターも含めて日本からは5名となった。それに四輪駆動車2台と運転手2名、現地ガイド1名である。
なお、文中の地名や標高は正確なものは不明で、いろいろな地図や文献によってはいるがおおよその読み仮名や数値を使用したものである。
(参加メンバー)
隊 長、 MO 1935年生)
マネージャー、AK 1934年生)
食糧・装備、YT 1942年生)
写真記録、 KS 1936年生)
ツァー・コンダクター・TI 1930年生)
(成都からラサ(拉薩)へ)
2005年12月18日(日)に福岡空港発CA916便、午後2時50分発、上海に4時50分に着く。上海で入国手続きをする。時差が1時間あり、時計を遅らせる。上海発の5時25分の便に乗り継ぎ、成都に午後8時5分に着く。
王華山(Wang Hushan、四川省登山協会)の出迎えを受け、空港から40分ほど走り、市内の南にあるホテル「森粋苑(Senhua Garden)」にチェックインする。18階建てのホテルで、入った部屋は広くて清潔である。ラサ滞在
12月19日、晴れ。午前5時に起床し、成都空港へ向かい7時40分発の1番機でラサ(3,658m)に向かう。午前10時着。20%ほどの乗客である。天候は晴れで機内からナムチァ・バルワ(Namcha Barwa,
7,762m)などの中国・インド国境の山々がきれいに見られた。
ラサ到着後、ヒマラヤホテル(喜馬拉雅飯店)にチェックインする。ヒマラヤホテルは、ラサ市内の南部にある三ツ星ホテルで全室バスが付いている。
午後は高所順応のために休養とする。荷物整理などで時間を過ごす。
12月20日から3日間、ラサで高所順応と出発準備をする。
1日目は、郵便局と西蔵博物館に行く。博物館の中は寒かった。2日目は、北京・ラサ鉄道駅の貨物のための駅をネチュン(乃京)という村に見学に行く。まだ建設中で線路のみが敷かれているだけである。近くの山の手に「生き仏」のいるというゴンパがある。北京・ラサ鉄道の旅客のためのラサ駅も市内に建設中であった。この鉄道は私たちの帰国後計画よりいち早く、2006年7月に開通した。
2日目の午後3時から装備や食糧を準備する。TIが借りている倉庫に山ほど装備があり、探し出すのが大仕事であった。共同装備と食糧は、3つのボックスと大型バッグに一杯になった。それに20リットル入りガソリンタンク6缶も積むことにした。途中でのガソリン補給が困難だからである。
タイヤ・チェーンの試着をした。日本から別送してあった金属製のタイヤ・チェーンも8本あり、新型ランドクルーザーのタイヤには少し短かったがなんとか装着できることが確認でき一安心である。この他にプラスチック製のタイヤ・チェーン4本も用意した。日本製四輪駆動車(トヨタ・ランドクルーザー)の中古車は18万元(約270万円)ほどで、私たちの車はすでに20万km走行しているが、程度は良いほうである。万一の場合のためのテントとマットも積みたかったがこれ以上積むとバネが折れるかもしれないというので断念する。
MOが2005年9月にラサに来たときにデポしておいた食糧と装備約20kgが、旅行社が変更になったためやそのときのガイドが不在だったりして、成都の支社に連絡をとったりしたがなかなか連絡が付かず、出発前日になってやっと受け取ることができた。このために、MOは心身共に大変疲れきってしまった。
その夜は、タクシーでポタラ宮の先にある餃子専門のレストランに行き夕食をとった。蒸し餃子と焼き餃子を4皿とビール3本で約100元(1500円)であった。
MOは、早めにベッドに入ったが 身体がだるく、酸素値(パロスオキシメーターによる血中酸素の%値、以下酸素値と略記)も50%位で心配である。部屋に備え付けの酸素発生器の酸素を10分間ほど吸入する。5時間分のプリペイドカードは50元である。酸素を吸入するとしばらくは酸素値も80%位になるがすぐに低下してしまう。
ラサの滞在3日目に、タクシーでポタラ宮を見物した。拝観料は100元と高い。ただし、チベット人は2元である。2時間半ほどかかり、大変疲れた。ビデオカメラを回してカメラの調子をテストした。
リンゴを買う。1個60円くらいである。干し柿も1個30円くらいである。
TI. KSは、ラサに何度もきているので、市内観光は省略し、郊外にある未踏の6,000m級の山のアプローチを調べに行った。なかなか分かりにくい所だという。来年の夏に登山する計画だという。
予定していた女性ガイドはお母さんが急病のため村へ帰らなければならないことになり、新しいガイドが夕飯のときにきた。トン・ダップ(頓珠、Thon Dup)といい、34歳(1970年生まれ)で日本語はできないが、英語ができる。
MO.の体調は依然として良くない。荷物を整理し、日本への手紙を20通ほど書き、午後10時にベッドに入る。
(ラサ(拉薩)からチベット第2の都市シガツェ(日喀則)へ)
12月24日、シガツェ(3,886m)へ向かう。晴天である。約400kmある。
ラサを出てしばらくでヤルツァンポ河を渡る。外気温マイナス5℃程度で寒いが道路に雪はない。舗装された快適な道を約4時間走り、マノサルワール・ホテル(神湖飯店)にチェックインする。
翌日、MO.は気分が大変悪く終日、ホテルで休む。他のものは市内のバザールなどを見学する。
(シガツェからサガ(薩嗄)経由パルヤン(岶羊)へ)
12月25日、約441kmの長距離の移動なので午前9時に出発する。
シガツェからユロン峠(4,950m)まで155km、ラツェ(拉孜、4,000m)から昴仁まで56km、さらに第六道班と走り、サガ(4,500m)に午後6時40分到着し、招待所(簡易宿泊所)に入る。途中の道路や峠には雪はほとんどなく、快調に走ることができた。
翌日は、サガからパルヤンまで走行する。距離は約216kmと短めである。まだ真っ暗な午前9時に車に荷物を積み、町中を30mほど移動すると幸い開いている飲食店があり、お粥と大根の芥子付けに大豆の煮たものに饅頭の朝食をとる。
町を外れると荒野の様子で川の水は完全に凍結していて凸凹の氷になっている。氷が盛り上がっている箇所も多い。あたりの山には雪はほとんどなく、黄茶色の斜面で草木は全然ない。夏には小さい草が生えるのかもしれない。道路面は凍結しているが、氷はあまりなく、スリップの危険は少ない。
しばらく走ると午前10時20分頃、右手奥に雪山が見えてきた。チベットの6,000m峰の一つらしい。
145km走って12時30分、トンバ(仲巴)に着いた。昼食をとろうとしたがどの店も用意ができないということで先に進む。冬は旅行者がほとんどなく、飲食店も招待所も休んでいるところがほとんどである。
トンバから71km走って、午後2時40分にパルヤンに着く。ヤク・ホテルという招待所の3号室に入る。厳寒のマユム・ラ峠(5,216m)越え
12月26日曇り。今日は、パルヤンからタルチェン(大金)経由してモンシェ(門士)まで行く予定である。
パルヤンを出発して1時間ほど走ると左手に雪山の連山が見えてくる。距離と方向から中国とネパールの国境の6,000m峰らしい。
荒野を過ぎると雪がだんだん深くなる。雪は20cmほど積もっている。風もあって寒い。マイナス10℃以下になっている。車の中は0℃程度なので、羽毛服などを着込んでいればなんとかなるが、なかなか外に出る気にならない。
マユム・ラ(5,216m)から、雪の高原が続く。ちょうど12時にチェックポストに着く。遮断機が下りていて新しい建物がある。許可書のチェックを受け、急いで通過する。かなり冷えていてマイナス15℃程度はある。車の窓は外側も内側も氷が貼っている。もちろん暖房を付けているが運転手の視界の確保のためにほとんどフロントガラスに熱気は向けているので室内の暖房効果はほとんどない。ガイドがプラスチックのカケラで窓の内側の氷を削り取っている。後部は荷物が一杯で視界はない。
峠を越えても雪の斜面は続き、登り下りとカーヴの連続である。ノーマルタイヤだが、幸い轍が残っていてスリップしないので助かる。
1時間ほど下ると、ナムナニ峰(Namunami,
7,728m)とカイラス峰(Kailas, 6,656m)が見え始めた。残念ながら高い位置に白い雲が張り出しており、絵ハガキにあるような青空に映えるカイラス峰は望めない。
どんどん下る。平原状になる。標高も4,400mになり、マノサルワール湖(マバム・ユムツォとランガク・ツォの2つの湖からなる)の東側に出る。さらに30分ほどすると分岐点に出る。神山とアリを示す標識がある。アリのほうに進む。
カイラス峰山麓の町タルチェン(4,675m)に到着する。一面雪の世界で寒々としている。タルチェンに泊まることにして招待所に寄ってみたが閉まっていた。留守番の人がいたのでせめて食事ができないかと聞いてみたが駄目であった。先に進む。
カイラスから続く岩山が一旦高度を下げ、再び高くなって岩山を前にしたゴツゴツした雪山がある。午後4時7分、大きな谷があり、橋を渡る。30分ほどでモンシェの村に午後4時20分に着いた。美満招待所(リキ・ニニカン)という看板があり、食堂も開いている。ここの招待所は使用できるというのでここに泊まることにする。
(モンシェ(門士)からアリ(阿里または獅泉河)へ)
12月27日の行程のモンシェからアリまでは約400kmあり、6時間はかかるというが雪は少なく、一部舗装してある新道を快調に走り、山を大きく迂回しながら登り、最後は、背後に三角形の岩山の聳えるアリ (4280m)の町に向かって一直線の大下りである。アリは漢民族の町である。歩道のある広い道路があり、商店も多い。
アリで道路情報を収集し、アリからルドック(日土)、スムシ(松西)、ターホンリュウタン(大紅柳灘)を経由し、ドマル(多瑪、4,450m)へ向かう。169kmある。
3日ほど前に軍の関係者がカシュガルからアリまで走行してきたという。雪はそれ以来降っていないので何とか走行可能である。
アリより新疆ウイグル自治区カシュガルへの道「新蔵公路」を走る。午前9時はまだ暗く、店は全然開いていないので仕方なく朝飯なしで走行する。
ルドックに昼頃に着いて朝食兼昼食をとる。町は大きく、生活用品は何でも手に入るようである。
アリからしばらく走行するとパンゴン湖が見えてくる。素晴らしい景色である。全面凍結している。写真を撮ったり、湖面の上を歩いてみたりする。車が走ってもびくともしない氷の厚さである。
西側奥にはゴンチャクジョリマリ(公昌久日馬日、6,038m)、ゼモリ(則木日、約6,000m)、ギャソギャリ(羹甲日、約6,000m)などの雪山のいずれも未踏の6,000m峰が望める。ルドックからドマル近くの旧石器時代遺跡を過ぎ、このコース最高の界山大坂の峠(5,240m)を越える。
宿泊を予定していたスムシの招待所は開いていない。その東側にロンム・ツォという湖があり、月明かりに光っていた。このあたりの東には未踏峰40座以上ある。登頂されたのは、イギリス隊が2004年9月に初登頂したアンロン・カンリ(Nganglong Kangri,
6596m)だけである。
結局、真っ暗な中を走り続け新彊公路の最高点の界山大坂(5,240m)、甜水海、泉水溝、奇台大坂(5,100m)の峠を通ってターホンリュウタンに午後10時10分に着いた。この間は険路で道が凍結しており、真っ暗で分からなかったが、無雪期に通ったことのある佐藤はその怖さを知っていて終始、祈る気持ちであったという。このあたりは、寒いのと乾燥がひどくて喉をいためた隊員が多い。
(ターホンリュウタンからイエンギサール「英吉莎」経由イェチェン(叶城)へ)
12月29日晴れ。今日は高い峠をいくつも越える。
康西瓦大坂(4,240m)の峠を越え、三十里営房から新蔵公路に沿い、カクアティ峠(科石阿特、黒卞大坂、4,850m)、マザル(麻札、3,790m)、セラク峠(麻札大坂、4850m)へと続く。このあたり、道の左手、南側にコンロン山脈の6,000mの無名峰の雪山が林立している。康西瓦大坂の西にカラコルム峠への分岐がある。カラコルム峠の西にはK2(8,611m)やガッシャブルム(Gashbrum,
8,062m)などパキスタンの山々が連なる。
標高3,800mのマザル峠からの下りは峡谷の中のじぐざぐ道である。幸いに雪はない。しかし、ほこりがすごい。クティ(庫地、2,000m)、アカズ峠(庫地大坂、3200m)、フシャ(普沙、2,200m)、アーバー(阿辧、1,400m)と索漠とした荒野が続く。アーバーで東にホータン(和田)からの道が合流する。
北へ、ヤルカンド(莎車)へ向けて走る。アカズ峠を午後3時15分に通過する。上のほうにうっすらと雪があるが。全体に岩山である。午後4時20分、新彊ウイグル自治区のチェックポストに着く。全員出頭し、チェックを受ける。
村の中の平坦な道になる。民家が多くなり、人も車も増えてきた。東方に火炎があがる石油基地がある。午後8時10分、イエチェンのホテルに到着。
(イエチェンからカシュガル「喀什」そして日本へ)
12月30日にイエチェンのホテルでうどんやラーメンの手作りの朝食を済ませて午前9時40分に出発する。寒々とした風景の中に起伏のない大地が続く。ねずみ色の雲が全天を覆い、暗い感じである。12時10分、克孜勤を通過する。平原がまだまだ続く。午後2時10分、待望のカシュガル(1,300m)に到着。毛沢東の巨大な銅像が建つカシュガル人民広場の近くの世紀賓館(Century Hotel)にチェックインする。
12月31日に小雪から曇りの中をウルムチ(烏魯木斉)に飛び、1月1日、2日と雪のウルムチに飛行機待ちのために滞在し、3日に北京の着いて、ここでも飛行機待ちのために4日間滞在し、2006年1月8日に帰国した。
(おわりに)
今回の旅は(株)「山渓」のTI.コンダクターに全面的にお世話になった。北京解散時に76歳になったTIを筆頭に72歳のAK、71歳のMO、69歳のKS、63歳のYTと、普通なら正月は孫たちに囲まれて炬燵でのんびりとしている高齢者ばかりの隊であったが、元気に探査を終わることができた。
「山では冒険はしない。常に安全圏内で行動する」をモットーにしているTI、「旅は先手必勝」を唱え、常に先のことを考えて準備するMO、万全の事前調査で望み、いわゆる「ロシアンマップ」を岐阜世界地図センターでコピーして研究しコースにそって編集して持参し、常に参照していたAK、無雪期にTIと一緒にこのコースを走破した初めての日本人としてそのときの経験を生かしたKS、抜群の行動力で隊の雑用を引き受け、終始陽気で、ウルムチで購入した民族衣装を着て、得意の剣舞を披露したYTと、各自の能力と持ち味を生かして全力を尽くした結果が今回の成功につながった。もちろん現地のガイドと運転手に負うところも多大である。
1月1日のラサでのTIの誕生日、1月3日のMOの誕生日パーティが反省会ともなったが、不満の声はなかった。しかし、今考えると、危険な場面も多く、よく事故がおこらなかったと冷や汗がでる。
MO 記
(帰国報告書『厳冬期チベット縦断』補筆)