「マリ峰」初登頂   3度目の挑戦

沖允人(足利市在住)

20117月:外国隊としてマリ峰山群に入域し、3度目の挑戦で「栃木インドヒマラヤ登山隊」隊長を務め、隊員3名、インド人ガイド1名がマリ峰(6585m)の初登頂に成功した。以下、初登頂の概要を略記する。

≪概要≫

パンゴン山脈の未登の最高峰・マリ峰は、主峰というべきマリ峰(東峰6585m)と西峰(6560mが吊尾根でつながっている双子峰である。西峰は2004年秋にインド海軍隊によってヌュルングック・ルンパ(Nlyunguk Lungpa )の谷から初登頂された。東峰は、鋭いピラミダルな雪と岩の山姿は魅力ある登山対象で、西峰よりも25mほど高く、その山姿からもマリ峰主峰と呼ばれる

≪禁止地域へ入域≫

ラダックの首都レー(Leh, 3500m)で数日間の登山準備や高地順応をした後、20117月1日に車2台とトラック1台で、世界第2の高い自動車道路の通っているチャン・ラ(Chang La, 5360m)の峠を越え、タンツェ(Tangtze, 3795m) 1泊し、72日にパルマ地区(Parma, 4651m) にあるインド軍のチェックポストに到着した。ここから先は、登山ビザ(X-Visa )に加えて禁止地域入域許可書ともいうべきインナーライン・パーミット(Inner Line Permit=ILP Protected Area Permit=PAP)必須である。ところがこれらの許可書を、ガイドが持参していなかったことが判明した。チェックポストでは「許可書がないので入域は許可できない」という。

長距離電話連絡で、許可書を至急に届けるよう依頼し、待つことにした。しかし、国境地帯の複雑事情から、許可書が早急に届く見込みは薄いので、リエゾンオフィサーと隊長・沖が再びチェックポストの係官と折衝し、ベースキャンプ(BC) 予定地がチェックポストの約1km先の近くでもあることから、特別の計らいで一時入域の許可を得ることができた。

 

≪高所キャンプの建設≫

パンゴン山脈東側のカウンシ・プー(Kaungsi Phu ) 谷入り口の標高4600mの河原の草地にBCを建設した。

翌日から枯れ谷である広い幅25km のカウンシ・プー谷の上流に向かって岩と砂礫の累々と広がる斜面を登り、上部の偵察を開始し、73日に、BCから標高差1000mあるマリ峰南東氷河(仮称)のモレインの上に、僅かに水が得られる場所を発見し、第1キャンプ(C1, 5600m)を設定した。

続いて74日にマリ南東氷河の上部の氷河上に第2キャンプ(C2, 5800m)を建設した。C2からは、左手の見上げる高さにマリ峰の雪の山頂が、右頭上には、マリ峰から続く無名峰P.6531 Mt.Rock Headwear・烏帽子岩・仮称)の岩壁が聳えているのが眺められる。

 

≪マリ峰初登頂≫

1次登頂隊は、C2711日、午前3時に出発した。出発時の気温は-8℃、風は少しあり、曇り晴れの天候。

大内一成・ダワ(Dawa Sherpa,ガイド)、片柳紀雄・毛塚勇の2組のザイルパーティは、マリ峰北側にある無名峰P.6531の岩壁の下部の雪の斜面を、マリ峰とP.6531のコル(6000 )に向かって、斜め右上へトラバース気味に登る。

雪面は、表面がザラメ雪状で、その下はコンクリートのような固い氷になっている。雪面はマリ峰直下から派生しているマリ南東氷河に右側から続いている。午前440分、コルに到着する。夜が明け始め、周辺の山々がうす明かりの中に見えている。しかし、雲が厚く垂れ込め、朝日は顔を出していない。

コルからマリ峰へ続く雪と氷のリッジをコンティニュアスで辿る。リッジは予想外に幅が広いが、リッジのマリ南東氷河側とヌュルング・ルンパ谷上部の氷河側はどちらもすっぱりと切れ落ちている。リッジの傾斜は6070 度程度で、表面はザラメ雪で不安定であり、下部は氷である。

40mロープ・3ピッチで2時間ほど登り、リッジを、マリ峰から派生しているマリ南東氷河側に少しトラバースする。クレバスが横エル字状に不気味に口を開けている。アイススクリュ−・ハーケンを使用してルート工作し、スタカットで再び3ピッチ登る。雪庇が北側のニメルホック・ルンパ谷(Nimelhok Lungpa)側に大きく張り出している。慎重に登攀を続ける。

再びクレバスが口を開けている場所に出た。ダワがクレバスにはまったが大内の咄嗟の確保で大事には至らなかった。ダージリン出身のダワは、体力はあるが登攀技術はまだまだで、このような難場でのトップをまかせるわけにはいかなかった。しかし、雇用した5人のハイポーターのうち高所で登攀活動ができるのは、彼だけである。やっと下から見えていた雪のピークに午前1025分に着いた。しかし、その先に、さらに高いピークが聳えている。最後の力を振り絞って、一旦、5mほど下り、登り返して、そのピーク、マリ峰の真の頂上に到着した。C2から約8時間かかっていた。

マリ峰山頂の広さは傾斜した僅か2uの斜面で、1人が立つのがやっとであった。マリ峰の北側は斧で断ち切ったようにすっぱりと1000mほどの高度差でニメルホック・ルンパ谷上部の氷河の源頭部まで切れ落ち、目の眩むような高度感である。その北側に日本山岳会石川支部隊がパンゴン湖側から20088月に、マリ峰から転進して初登頂したマーン峰(Maan, 6342m )の岩峰があり、マリ峰のコルに鋭い長いナイフリッジで続いている。石川支部隊が「ゴジラの背」と報告した登攀不可能に近いヤセ尾根である。

また、マリ峰の双子峰の一つである2004年にインド隊によって初登頂されたマリ西峰(6560m )に、マリ東峰から続く岩と雪のリッジは鋭く、起伏が多く、とても登攀不可能に見えた。

山頂では、寒かったが幸い風は強くなく、雲はあったが周辺の山々を眺めることができ、多くの山々の写真を撮影した。また、交代で初登頂記念の写真を撮り、下山にかかった。

下りは登りに倍加して危険が多く、疲れた身体に鞭打って、慎重に下る。難場のルートにフイックスした延べ約600mのロープを回収しながら一歩一歩高度を下げていく。午後210分にコルに着いてやっと一息入れる。

コルから遥か下に、パンゴン湖の青黒く輝く標高4350mの湖面の一部が見えていた。日射によって柔らかくなって歩きにくい雪の斜面をコルからC2へ向かって下って、午後325分に無事に到着した。さらに、C2から氷河カールの左側の急なガレを下り、C1(5600 )に着いた。ハイポーターのロブサン(Lobsang Bhutiya )が甘いジュースを作って待っていてくれた。

 

≪第2次登頂断念する≫

712日に登ってくる予定の粂川章登攀隊長と沖允人隊長を迎え、第2次登頂に向けてサポートするために、大内・片柳・毛塚の3名はそのままC1にとどまる。ダワとロブサン2名は、午後4時にC1を発って日も暮れた午後7時過ぎにBCに辿り着き、BCにいた粂川・沖・インド人スタッフ全員に祝福された。

しかし、ダワは疲労困憊していた。ルートの状況を聞きだそうとしたが明瞭に説明できなかった。悪絶なルートを思い出してか・・・。

「ルートは危険であり、クレバスに落ちたし、もう2度登りたくない」とリエゾンオフィサーに訴えていた。

そのためか、個人装備と彼らのテントを、C1C2からBCにすべて運び降ろしてしまっていた。また、「日本人3名は多分明日BCに下山してくるだろう」

とも話していた。

次の日は曇り空であったが粂川と沖は午前7時にBCを出発し、標高差1000mを登って午後2時にC1に着いた。大内たちに、初登頂のお祝いの言葉もそこそこに、早速、ルートの状況を聞いた。ダワの話したようにルートは非常に厳しいということであった。

明日、C1に登ってくる予定のダワとロブサンのサポートで、粂川と沖と片柳がC2に入ることにした。

713日、午前11時にダワとロブサンがBCからC1に登ってきた。彼らも思い直したらしく、テントなど一式を担いで登ってきていた。ダワは、明日C2に着き、そしてコルに登り、さらに条件が良ければ山頂を目指す、粂川と沖と片柳をサポートすることになった。

C1からC2へのルートは、@C2の右手のガレ場を迂回して登るものと、Aマリ峰正面からのマリ東氷河に突き上げている急峻な岩場まじりの斜面を、ほぼ、直登するものとがあり、ダワたちは時間が短いので後者Aのルートをとることを主張した。

714日、午前7時、ダワとロブサンが先行し、粂川と沖と片柳が続いた。直登するルートは時間が短くてすみそうだったが、上部からの落石の危険もあり、途中でゆっくり休むことはできなかった。岩場・ガレ場・氷の張る小沢、そして、最後は氷河となり、約2時間でC2に着いた。

C2は広い氷河上に建設され、標高が高く息苦しいが、マリ峰山頂の望める快適なテント場であった。その夜は、粂川と沖と片柳はC2に泊まり、ダワとロブサンはC1に下っていった。

しかし、その夜半から雪が降り始め、翌朝までに約15cmの積雪があった。朝になっても晴れる兆しはなかった。むしろ新雪雪崩が心配であった。頂上は無理でもせめてコルまでという希望は望むべくもなかった。やむなく、C2を撤収し、下山することを決定した。充分な高所順応のできていない沖を片柳が後方からザイルで確保し、粂川らが前を歩くという体勢で、登りと同じ約2時間かかりC1に帰着した。

翌朝、BCに下山したが、入域許可書は、依然として届いておらず、チュスルの警察もこのままでは不法滞在となるといって警告しているというリエゾンオフィサーの報告で、できるだけ早く、BCを離れ、少なくともタンツェに下る必要があるという指示であった。したがって、BCでもう一度ゆっくり休養して第2次登頂を試みるという時間的余裕はなくなった。

716日から17日にかけてC1を撤収し、リエゾンオフィサーと日本人のみ、急いでBCを離れた。パルマの村から振り返ると、マリ山群が曇り空に高く聳えていた。

717日にタンツェで1泊し、18日にレーに帰着した。インド人スタッフはBCを撤収し719日、レーに帰着した。