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フェアウエザー(MountFairweather4663m)
         
             1969年(昭和44年)5〜7月

隊長・高坂晋、副隊長・酒井美一、隊員・深水修二、西賢二、貫野邦雄

概要
 第1目標のフェアウエザーは(15306ft=4665m)は、酒丼、貫野.深水の3名で3晩ビバークの末、アタックしたが、(14360ft=4377m)の頂上直下で種々の条件が悪く、登頂に失敗した。あと1000ft(305m)を残しての敗退だったので残念であった。第2次アタック隊を編成し、再度ねらおうと思ったが、日数も食糧も燃料も不足し、天候も不順であり、断念した。
 第2目標のサビーネ西峰(Sabine、9752ft=2972m)は深水、西の両隊員により、1晩のビバークの末、6月28日午前8時05分に初登頂に成功した。
 全体の登山日数は6月6〜30日までの27日間であった。
 現地では、アメリカ極地探検隊(隊長はアメリカのヱベレスト隊隊長)M.Miller氏によるレセプションに招待され、また多くの山岳関係者や在住の日本人の方々と交歓を行った。新聞社とも対談し、報道された


概要日程
5月20日
 先発隊2名が羽田空港を出発し、アンカレッジ経由でヴンクバーに14時30分に到着。
沖允人会員の教え子の名城大学OBの早川和巳さんがシアトルからかけつけてくださり、総領事館などで登山などの手続きをすませる。ニュー・ウォレット・ホテル(New Ueored)に泊まる。
5月27日
 後発隊3名がシアトル空港に18時に到着し、全員がそろう。



6月1日
シアトルから船で出発し、クチカン、ランゲル、シトカを経由してジュノア(Juneau)に6月3日の午前3時に到着。バラノフ・ホテル(Baranof)にチェックインする。
6月6日、隊員と隊貨を、小型機でBC(ベース・キヤンプ)まで空輸する。この日にR1(レストキャンプ)建設。
6月7日、R2建設。
6月8日、R3建設。
6月9日、R4建設。
6月10日、BC建設。
6月11〜13日、C1までルート工作、荷上げ
6月14〜16日、C2までルート工作、荷上げ
6月18〜21日、フェアウエザー峰のアタックに失敗し、登頂を断念する。
6月22〜24日、C2・C2撤収しBCに入る。
6月24〜28日、サービン西峰登頂
6月29日、BCを撤収、R3
6月30日、R2
7月1〜4日、R1、リチュヤ湾(Lituya Bay)着
7月5日にジュノーに全員帰着。













フェアウェザー峰のアタック・深水修二
 
フェアウェザーは北米で最も困難な山の一つに数えられていた。その理由は、岩と氷でガードされた至難のルートであることに加え、海抜0mの太平洋岸から掛け値なし4663mを誇る高度差にある。その困難なピークに我々は5名のメンバーで挑んだ。
 6月6日ジュノーを立ち、天然の良港であるリツヤ湾に水上飛行機で降り立った我々は、さらに4日間のアプローチを経て6月10日フェアウェザー氷河の上にベースキャンプを建設した。
 バースキャンプでは、エアードロップで散乱した荷物の収集と、短い休養の後、すぐに前進キャンプの建設にかかった。C1とC2の建設に6日を要した。フェアウェザーは、我々の予定ルートである南西稜にとりつく前から手強い相手であった。C1へのルートは困難なルートファインディグと悪相のセラック帯に行く手を阻まれたのだ。
 南西稜リッジの登はんも、取り付きから悪相の雪壁と岩壁が連続した。なによりも我々を恐怖の虜にしたのが、いつ落ちてくるとも知れないブロック雪崩である。空爆かと思うような爆音をあげて氷河に落ちるブロックの音は、最後までなれることは出来なかった。
 C2(2000m)で雨のため1日休養し、18日いよいよ酒井、貫野、深水の3名で第1次アタックにかかった。早朝5時40分、キャンプを出発。落氷で黒く磨かれた氷の斜面を追われるようにかけ登ると、すぐにフェアウェザーの核心部の一つである垂直の岩壁の登はんである。ハングした側壁を巻くように3ピッチの苦闘が続いた後、ようやくカープリッジに抜けることが出来た。長いぐずぐずの岩稜の登り続き、ようやく小さな岩のテラスにたどり着いた。28000mのこのテラスが最初のビバークサイトである。午後3時であった。
 翌朝5時45分、登はんは60度の傾斜の鉄のように堅い堅氷の登りから始まった。アイスハーケンは歯が立たず、アイススクリュウのみがかろうじて有効であった。アイゼンの歯で氷壁のわずかなひだを拾いながらの氷壁の登はんは、かって経験したことのない快適な登はんであった。2ピッチ半ほどの堅い氷壁の後、ルートは無数のクレバスを持つ氷原へと続く。クレバスをさけながら岩稜の右側をトラバースし、やがて南西陵(カープリッジ)に戻ることが出来た。南西陵はピラミッドと呼ばれる岩峰で南陵と合流する。このピラミッドへの登りは、かってこのルートの第2登を果たしたパデイー・シャーハン氏に、バンクーバーで、「タオルで拭いたような青氷の斜面」と伝えられていた。しかし、我々が登った時は、斜面は強烈な太陽を受けて表面がザラメ化し、キックステップが容易に出来る状態であった。この氷の斜面はいつ果てるとも知れず長く、傾斜は登るにつれ増していった。結局この斜面は10数ピッチ続いた。ピラミッド状岩峰を抜けると、その先は見事な造形美を誇る氷のアレートであった。ナイフの背のような氷の稜線は適度の傾斜を持っており、かって見たことのない神秘的な美しい姿を見せてくれた。
 氷のアレートの中腹でこの日は2回目のビバークと決めた。午後5時であった。高度計は3700mを示していた。
 6月20日、この日登頂することを期し装備を軽くしアタックにかかった。午前5時である。70度の急な壁状の斜面は60mで、その上は上部アレートに続いていた。稜線は1m程のまるで歩道かと思われような様相を呈しており、我々をハイキング気分にさせてくれた。上部アレートは我々をアイスショルダーへの斜面へと導いてくれた。アイスショルダーの登りは、限りなく広く長大で、最初平らと思われるような緩い登りは、登るに従って次第に傾斜を増し、大空にせりあがるという感じの斜面であった。アイスショルダーに達する頃には傾斜は70度を示していた。400mの斜面の下にはフェアウェザー氷河まで数千mの断崖が続き、まるで飛行機から下を望むような高度感であった。
 斜面を抜けるといきなり広い平らな山頂に達した。13800フィートのフェアウェザー南東峰に達したのだ。アメリカ隊、カナダ隊に続く第3登である。
 アイスショルダーからは主峰との間のコルへの下りである。1時間余りの下りの後コルに達した。これからは、いよいよ最後の登りである。氷に生えた様な岩と氷のコンタクトラインを慎重に上る。4千mを越える高所での岩登りは初めての経験である。すでに高度障害に苦しめられていた3名には、過酷なアルバイトであった。困難なトラバースの後、最後の難関である氷の垂壁に達した。40mの垂壁は表面がザラメ化し、登はんは困難を極めた。長い斜面で幸いした表面の緩みも、ここでは最も過酷な悪条件と化していた。足下の斜面は20cmほどが大粒の氷砂糖のようにザラメ化し、アイゼンをけ込んでも全くホールド出来ないのだ。20mの前進に8本のアイススクリュウをねじこんだ直登の後、トップの貫野は足下をすくわれて宙づりになった。もはや体力と、気力の限界を感じた貫野はそれ以上の前進を拒否した。隊長との交信で、いったんビバークの後翌朝再度アタックと決め、その日はコルまで降りることになった。頂上まで300mを残し、下降に移った。しかし、コルまでの下降も楽なものではなかった。アップザイレンによる振り子気味のトラバースは、ともすれば降り戻されそうで緊張の連続であった。2時間の苦闘は我々の最後の気力を奪い去った。3名の頭の中にはもはや再びこの壁に挑戦しようという意欲は消え失せていた。コルにたどり着いたのは午後8時であった。
 翌朝、マイナス30度のアラスカの高所でのビバークを戦い抜いたのち、3名は下降に移った。さらに1夜のビバークの後、隊長達の待つC1にたどり着いた
。 



サービーネ西峰登頂・西賢二
 フェアウエザー峰登頂に惜しくも失敗したは私たちに落腿の色をかくすことは難かしかった。氷河の状態は1日、1日と悪化し、帰路の危険も高くなっていた。このよう時に隊長を困らせたくなく、サービーネ峰へ登山の希望を出しそびれていた。
 6月25日に来る予定になっていた小型機のチェック・フライトが1日後になり一時はサービーネ峰はあきらめていたが、「無理せず.ただ無欲で」という約束で隊長から許可がおり、27日と28日の両日で深水隊員と私がザイルを組み、出掛けることとなった。
 27日6時、BCを出発し、2時閥近くで西稜の北側のルンゼの取り付き点に着き、登り始める。
 雪もしまり、午前中に急ピッチで高度をかせぐ。45度の傾斜も「出ツ歯」のアイゼンが快適にきき、不安気なく8300ft(2530m)の地点まで達することができた。
 日照時間も長く、12時間の行動はさほど苦にならなかったが、披れも出ているのでビバークに入る。しかし、うっかりツェルト持ってくるのを忘れたのでポンチョをかぷって寝ころぷ。気温は低いようだが、いつまでも照る太陽のお陰で数時間の睡眠はとれた。
 28日、いよいよ頂を目前にファイトを燃やす。午前3時に起き、4時過にはビバークサイトを出発した。
 すぐ近くに見える頂上はなかな私たちを近づけず、時間だけが遇ぎるように思えた。フェアウェザー蜂アタック隊もこの感覚で目測を誤り、失敗しているので充分注意はしていたものの、あまりにも日本の山との感覚の違いに今更ながから唖然としてしまった。
 一歩一歩の前進は高度が稼げた。70度近い雪壁の登りの160mは一気に高度を稼せげた。登頂を間近にし、気もあせり出す。
 BCで待機する隊長からは「一歩一歩慎重なる行動を」の言葉がドランシーバーにから入る。
 午前8時08分、私は、深水隊員と譲り合うように広い頂に達した。高度こそ9752ft(2972m)と低いが、頂に立つ感激は生涯忘れることはないであろう。私たちは多くの方々のカを借りて成功することがでさた。心から感謝する。

この項は「青い氷河」中京山岳会1969年アラスカ登山隊(編)・ 1969年発行より抜粋..

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